ますだいっこうのあと@ベルリン

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シーシーポップ『Fruelingsopfer』[ベルリン2014]

学校はイースター休みで10日間の休みさあてとやり残し他もろもろ書き上げながら、テアタートレッフェン/ベルリン演劇祭の電脳切符争奪戦参戦。仮想待合室に回され順番待ち番号が減っては増えは初体験、途中まで行けても結局待合室に飛ばされるなど小1時間はさっぱりでその後ぼつぼつつながるようになり、最終的には希望していたメイン2作品サブ3作品どれも確保できた。航空券のなんちゃら割り発売日同様こういうネット使いの集中はホント苦手で疲れる、しかもBGMは三児じゃれ声ドア音叱り声真隣居間の大きめ音楽ときて、逆撫で状態。午後to do潰し的独語復習。
シーシーポップShe She Pop『Fruelingsopfer』@HAU1。逐語訳すると「春の生贄」とか「〜犠牲者」、ウィキ知恵によればストラビンスキー曲の別称でもあるので、素直に『春の祭典』でもいいのかも、劇中にてフルで使ってたしね。副題的「シーシーポップと彼女たちの母親たちによって上演される」とあるとおり、実父出演だったリア王に続き今作は実母をいわば俎上へ。ただし彼女たちは映像音声でしか現れない、そこが大きな違い。4枚の縦長のスクリーンというか旗的なのがさがる舞台、そこには映像がすでに投影されていて何かの柄っぽい。開演すると、4枚を横断しての映像や、長方形で各母ごとの映像や、収録された映像と実際に舞台に上っている出演者による動きとの重ね合わせの映像など、もはややり尽くされているようでいてああこう視える/視せるのね的なビジュアル使いにも感服。前半がおもに台詞的パートで、たぶん親子などに関してことわざ的・箴言的に次々言ったり、母親の自己紹介やエピソード喋り音声があったり、そこらは客席から笑いも何度か漏れていた。あと“春祭”に合わせての“ダンス”は、動きそのものは全然高度じゃないけど、結構踊っちゃう、というか、その中で母と子供たちが言葉とは別のレベルで様々な取り交わしをしていく・いた、そんな感覚。親子関係と生贄云々は、作品紹介や当日パンフなどにも出てはくるけど、そういうニュアンスは言葉側にあったのか僕には汲み取れなかった。ま、単純に4人の母親たちがそれぞれああいるいるこういうオバチャン的な親近感が湧いて、客席で観る限り、生き生き何だか面白がって動いてたり皺もろともせず大写しで微笑んでたりする姿だけでも、ある意味大元の「春の祭典」のテーマ的なものをも想起させてくれた。にしても当たり前だけどやっぱり母子の顔はどこか似てるもんね。横浜での存在感でファンになったリザもがっちり4人の子供側の一人として立っててそれも心躍った。
備忘録:ベルリンの駅近カフェリスト